桑園の歴史と由来

桑園の始まり

 明治8年(1875年)開拓使は、これからの屯田兵に養蚕をすすめるための計画の一つとして、北1条より北10条、西11丁目から西20丁目の地域を全部桑畑にする事に決めました。黒田長官は、松本十郎大判官と相談して、庄内藩(今の山形県)の元侍だった人たちを招いて、開墾してもらうことにしました。


 明治8年5月末、品川(今の東京都品川区)から回ってきた開拓使の舟玄武丸で酒田の港を出発し、七重浜(函館)で2小隊がおり、大野の開墾に向かいました。残り4小隊158名は6月1日に小樽に着きました。黒田長官と松本大判官は銭箱で一行を迎えました。その後一行は隊の旗をかかげて歩き、銭函街道から円山を通って札幌本府に入りました。


 宿舎は浜益通(北1条)のきれいな湧き水のそば(知事公館内)に用意されていました。開拓使から一人ずつ布団2枚とブランケット(毛布のような物)をもらいました。


 仕事をする場所に到着して、都築、本多、白井、林の4人の組頭(小隊長)のもとで記念写真を撮りました。この人たちはちょんまげは切っていましたが、和服で、腰にはまだ大小の刀をさしていました。木を切ったりする時や土をおこしたりする時は、刀をそばの木につるしておきました。休み時間には、持ってきた「四書五経」などの本を読んだり、和歌を作ったりしました。


 6月4日から9月15日までの100日余りに、21万坪も開墾し、桑の苗を植える穴を掘りました。その頃の桑園は大木なども生い茂る荒れ野や湿地が広がっており、野生馬が沢山いてつむじ風のように駆けていました。また本州と違って夏でも朝昼の気温の差が大きいため、開墾には大変苦労しました。そのため風邪や脚気などの病人も沢山でました。松本大判官は馬に乗って励ましてまわりました。


 しかし松ヶ岡開墾で培ったやり方や4つの組の協力、それに月明かりをもとに夜12時すぎまで働くなどの努力で、短い期間に大きな成果を上げました。そのため開拓使は酒田県に士族が戻る前の9月17日に雨竜学校(今の市役所のあるところ)でお礼の送別会を開き、赤飯の他、牛肉のてんぷら、玉子焼き、梅のようかん、秋味のかまぼこなどを出してごちそうしました。また、感謝状やおみやげとして、プラウやレーキなどの西洋農具、洋牛2頭をおくりました。


 これより、この酒田県士族によって開墾された土地を酒田桑園と呼ぶようになりました。

桑園碑について

 庄内藩士族が郷里に帰った後、開拓使はその宿舎を桑園事務所としました。そして明治9年(1876年)5月酒田県から桑の苗を買い庄内藩士族が掘った穴に植えました。その後福島や群馬からも苗を買って植えましたが、冬の寒さのために木の皮と中心との間が凍ってしまい本州からの苗は枯れる物が多く、明治12年(1879年)には全滅してしまいました。そこで今度は北海道の山に生えていた山桑に植え替えたということです。そして、桑畑も48万坪に拡げました。


 明治25年北海道庁(明治9年より道庁となる)はこの桑園を「かいこ」を飼って「まゆ」をつくる仕事をしたい人に分け与えました。庄内藩士族の宿舎跡(現知事公館)は森源三さん(後の札幌農学校長)という人が買い、桑園の開拓の様子を記録した大きな柱を庭先に建てましたが、時を経るにしたがって腐りかけてきました。そこで森源三さんの長男の広さんは、桑園をつくりあげた歴史のしるしが年々の煙のように消えゆくことを心配して、となり近所の人々でこのことに関心を持っておられる方の賛成をいただいて、桑園がつくられた歴史を石に刻み、ながく後々の人々に伝えようと考え、明治45年(1912年)「桑園碑」という石碑を建てました。ところがいつの日か分かりませんが碑の題の「桑園碑」が「国富在農」(農業がしっかりすることは国が豊になるもとである)に変えられていて、今も知事公館東門にあります。


 これを残念に思っていた人たちは、開拓に尽くした先人の苦労を北海道道民と一緒になって思い出し、その努力に感謝したい心から、桑園振興会の人々がお金を出し合って、公館正面入り口に近い木陰の所に台石は日高石、その上に高さ2m、幅1mの仙台石にもとの通り直した「桑園碑」を建て、昭和41年(1966年)5月28日(庄内藩士族団が酒田港を出港した日)に除幕式を盛大に行いました。


 平成元年からこの碑の前で「桑園開拓祭」が開かれ桑園小学校6年生の代表が陰文(碑の裏に書かれている碑文)を朗読しています。


※庄内藩の名称については鶴岡藩や酒田藩との名称で記してある資料もあります。